049:竜の牙
碧谷 明

それは、遠い遠い、過去。
最早思い出せない程の。
だが、それは、まごうことなき、事実。
記憶の波に呑まれ、奥底に沈んでいたとしても、
それだけは、変わらない。
変わろう筈も、ない。
それは、まごうことなき、事実、なのだから――
ことん。
「アレ? 瑠璃華サン、何か落ちましたよ?」
ソレは、どうやら紐の切れた護り袋らしかった。
「ぁ? ああッ!! ありがと。危うく失くすトコだったよ」
瑠璃華は浅葱の手からソレを引っ手繰るようにして受け取ると、さも大事そうに握りしめた。
「ちょっとォ、そんなに大事ならちゃんと落っことさないようにしときなさいよ、お姉ちゃんったらァ!」
浅葱の傍らに居た玻璃音がぷぅっとむくれてくってかかった。
「あぁもぅうるっさいなァ……」
「っていうかなんなんですかそのお護り?」
紐が切れた云々以前に随分と古い。浅葱が何か曰くのある品だと思ったのも無理はなかろう。
「あれ? 言ってなかったか? 昔っから持ってるお護りで……多分、竜の牙だと思うんだけど……」
「「はァッ!!?」」
普通ではありえない品に浅葱と玻璃音は揃って目を剥いた。
「だって、ホラ……」
瑠璃華が護り袋を開くと確かに中には古惚けた黄色い牙のようなものが入っている。が――
「あのぉ……そ~ゆ~のって普通は宝物殿とかに大事にしまってあるモノなんじゃあ……」
「確か誰かに貰ったんだ。それだけは覚えてる。盗った覚えもないしな」
あまりにも非常識な贈り物。なぜなら、竜の牙はとてつもなく入手困難なだけでなく、持ち主の
「なる程ねェ~道理でお姉ちゃんには勝てないと思ったら……竜の牙のせいだったのね?」
「何言ってんだい?そんなモンがあろうがなかろうがアタシのが強いに決まってんだろ?」
「っていうか僕はむしろ誰から貰ったのかってことが気になるんですケド……?」
宝物殿にしまいこまれていなくてはならない程の貴重品を、一体誰が、何のために瑠璃華に贈ったというのか――
全ては、瑠璃華の埋もれてしまった記憶と、送り主のみぞ知ることであった――
「そういえば兄上、あのいつか持ち出された竜の牙、一体どうなさいました?」
「あァ~?」
大内裏は雷の間。雷霆は弟である霸霧帝の問いに何のことかと眉根を寄せる……フリを、した。霸霧帝もすぐにそれが
「うちの蔵漁って勝手に持ち出したでしょう? 毎年毎年係りの者を誤魔化すの、大変なんですよ?」
「お前、やァっぱ臣下にナメられてんじゃねェの?」
満面の笑みで軽ぅ~く凄みつつ先を促す霸霧帝を、雷霆はあっさりと一蹴した。だが、霸霧帝も負けてはいない。
「大方、何処かで女性を口説くためにでも使ったんでしょうけど……一体何処のどなたに差し上げてしまわれたのです?」
「…………」
なんだってコイツはこんな時だけ鋭くなりやがるんだと言わんばかりの風情で雷霆がじとり、と睨みつけても、霸霧帝は何処吹く風。臣下を煙に撒きつつ兄の相手をしてきた
「あ。ひょっとしてあのお気に入りの怪猫族で探偵のお嬢さんですか?」
ぶはッ!!!
動揺した雷霆は思わず飲みかけの酒を噴いた。
「うわッ! あ~ぁ、後でちゃんと掃除しといて下さいよ?」
そう、雷霆があの竜の牙を忘れる筈がないのだ。何故なら、それだけの理由があるのだから――
「なァ。お前サ、でっかくなったら俺のオンナにならねェ?」
少女は、少しきつめの黒く濡れた大きな瞳を、突然遊び場に乱入した挙句、突拍子もないことを言ってきた明らかに怪しい男へと、向けた。すると、男は嬉しそうにニヤニヤと嫌な笑みを口元に掃いた。もっとも、少女には応えるつもりなどサラサラない。ただ、変なヤツの顔を見てやろうと思っただけだ。
「なァ? 名前、なんてンだ?」
怪しい相手に名前など教えてはならない。が、それよりも。
「ふつう、ヒトに名まえをきくときは、まず自分から名のるもの、でしょ?」
「俺か? 俺は磐座雷霆、漆黒の雷霆だ。で、お前は?」
うっかり、しなくてもいいツッコミをしてしまったばっかりに、少女は名乗らない訳にはいかなくなってしまった。
「…………るりか。くろあげはのるりかだよ」
不承不承、といった体で少女が応えると、またしても男は嫌な笑みを口元に掃き、そして――
「手ェ出して。ホラ……」
受け取れ、と言うかの如く、ぬっ、と差し出された拳に、少女は思わずわたわたと両手を出した。
ころん。
「???」
少女の差し出した手の中に転がり落ちたのは、古惚けた黄色い、牙。力あるモノだということは分かるが、一体何なのか、何故それを渡されたのかが分からず、少女は戸惑いを露わにする。
「お前がでっかくなった頃に迎えに行く。その証だ。それまで失くすなよ?」
「はァ??」
応えた覚えはないんですけど。呆れた少女は、そう続けて牙を返そうとした。が、口元どころか目元にまで笑みを掃いて言霊を与えた男は、それを待とうともせずに、バサリ、と翼に風を孕んで飛び去った。
後に残された少女は、律儀にも牙を返そうと、幾日も同じ場所で待ち続けたのだが、男の方はいっかな姿を現さなかった。実際は影から、毎日やって来て自分が迎えに行くのを待ち焦がれている――かに見える少女の姿にほくそ笑んでいたのだが、それはさておき。
いつまで経っても現れない男に業を煮やし、少女の足は次第に遠退いていった。同時に、あの怪しげな男のことも忘れ、少女の元にはあの竜の牙だけが残ったのだった――

碧谷 明