泡沫の雲母の夢 ⑤
碧谷 明

「一体全体何事だ?」
柔らかな衣擦れの音とともに、涼やかな声でそう問うたのは。
内裏内の清涼殿に住まう、この雲母の主たる今上帝、
「お
「なりません、このような場においでなされては!!」
「お上のお体にもしもの事がございましては、取り返しがつきません!!」
朝廷に仕える者達は慌てふためき、口々に霸霧帝をいさめようとした。が、霸霧帝はまったく意に介する様子はない。
「別に東宮もいるのだし特に気にすることはなかろう? それよりも一体何があったのだ? 後宮の方まで騒ぎが漏れ聞こえてくるので、后達が怯えているぞ?」
「も、申し訳ございません。実は大内裏内に不法侵入した不届き者がおりまして……。」
「ああ、そなたらを叱っている訳ではないから案ぜずとも良い。それよりも不法侵入とは……?」
恐縮する彼らに霸霧帝は穏かに、だがきっぱりとその危惧の必要性を否定し、先を促す。
「あの者にございます。他に仲間がいるやもしれません。どうかお上におかれましては速やかに清涼殿へお戻りいただき、
そう奏上した者の示す先には、腕を組み口元に笑みを吐いた雷霆の姿があった。
「久しいな、
どこか小馬鹿にするようにして、雷霆は霸霧帝にそう声をかけた。
雷霄とは、霸霧帝の真の名である。『霸霧』というのは号にすぎない。本来なら磐座雷霄を名乗らなければならないのだ。一般には知られていない事だったのだが、霸霧帝は、雷霆と同じ姓を持ちあわせていた。
「兄上!!? 何もこのように騒ぎを起こされずとも良いでしょう!? いつもでしたら騒ぎなど起こされませんものを。今日は一体どのような風の吹き回しなのです?」
驚いたのは不埒者である雷霆を捕えんと集まっていた者達だった(もちろん、瑠璃華や浅葱も驚いていたのだが)。なにしろ守らんとする霸霧帝自身が、軽々しく雷霆に声をかけたのだ。霸霧帝の言の葉を聞く限りでは、彼が大内裏や内裏の内に出没する事など日常茶飯事らしい。あまつさえ、語調が丁寧な上になんと『兄上』と呼ばわっているのだ。これでは驚くなという方が無理であろう。
「あ、あの、お上……?」
「ああ、すまぬ。彼は私の双子の兄だ。」
「はぁっ!!?」
確かに、顔の造作は似ている。瓜二つだ。が、受ける印象はむしろ正反対なのだ。燃え盛る焔と静かな湖の
「まさか雷霆が霸霧帝の双子の兄だったとはね……。」
「案外、同行したがったのもこうやって何かあった時に上手く奥の手として使えるからだったのかもしれませんねぇ。」
唸るように瑠璃華はそう言の葉を零し、浅葱は呆れたようにその言の葉に同意した。
「それより瑠璃華サン、あそこにいるの、轂焔サンじゃないですか?」
「……確かに。でもだからって、下手に声かけたらアイツの首が飛ぶだけだろうけど。」
雷霆を捕えるためにかり出された者達の中には、当然検非違使の一員である轂焔の姿もあった。実のところ、年を考えれば轂焔は検非違使の別当になっていたとておかしくはない。未だその地位につけずにいるのは、ひとえに瑠璃華のせいだった。尤も、瑠璃華の力になるために検非違使という仕事を選んだ事を思えば、その事は別段不思議でも何でもなかったのだが。
その轂焔にとって、瑠璃華を危険に陥れる(轂焔にはそう思えた)存在である雷霆は、当然捕えて罰するべき対象であり、格好の機会の到来に轂焔は俄然はりきった。
「無法者・疾黒の雷霆!!! 大内裏内へ不法侵入するなど言語道断! 今日という今日は逃しませんから覚悟するように!!」
慌てふためいたのは轂焔の上司だった。相手は畏れ多くも霸霧帝の双子の兄である。彼にしてみればそのような暴言を吐く部下の方こそ『言語道断』であった。
「―――ッ畏れ多くもお上の兄君になんという事を!! 貴様などクビだクビ!」
「まあ待て。君は職務熱心な者を罰しようというのかね?」
「は!? いえ、しかし……。」
「私は
見つからなかったら良いのか? という気がしないでもないがそれはさておき。
「そうそう、貴様ら腰抜け共がこの俺様を捕えようなどと、千年早ェんだよ!! 大人しく諦めてうち帰ェっておねんねしてな!!」
煽るように雷霆が言霊を投げた(実際煽っていたのだろうが……)。
「無法者の爺ィが何を偉そうに!!」
「オイ、そこの蝿。今なんと吐いた?」
不意に、どすの利いた声が響いた。
「は?」
「今、確か『爺ィ』とかって吐いたよなァ~?」
「――っっアンタ九十三歳だろ!?」
「―――っ止めて下さいッ兄上!!」
霸霧帝が静止の声を上げたが時すでに遅し。
「やかましいっっ!!!」
ドオオォォォン!!!!
突如、
実は雷霆には霹靂を自在に操る能力がある。そして、その能力を持つからこそ、あれだけ危険に身を晒しながら九十三年間も生きてくることができたのだ。
「あーあ。怒らせちゃった。どーするんです? 轂焔サンの責任ですよ?」
「おまっ――しかも瑠璃華さんまで!! どうしてここに!!?」
「まぁまぁ固い事言いっこなしですよ。」
あいかわらず、どんな時でも浅葱は呑気である。実は瑠璃華と浅葱は、騒ぎの間に轂焔の背後に回りこんでいたのだ。
刹那。
バチバチバチィッ
すっかり忘れ去られていた宝物殿の中の謎のブツが突然、火花を発した。
「お上! ここは危険です!!」
「早う奥へおいで下さい!!」
霹靂が落ちても逃げ出さなかった者達も、さすがにこれには度肝を抜かれて逃げ惑う。
「なっ……!? 何なんだいあれは!!?」
瑠璃華や轂焔達も逃げてこそいないが、決してその例外ではない。その中で、雷霆は一匹全く動ずる事がなかった。それはどうやら、怒りに我を忘れている為ばかりではないようだ。
「フン。アレは俺が落とした霹靂を吸収しただけにすぎん!」
「って、アンタまさか、あれが何なのか知ってるんじゃないだろうね!?」
「ああ勿論知っているとも! アレは俺が拾って来た『えーしーあだぷたー』と『しんくうかん』だからな!!」
――――。
時が、止まった。
さもあらん、この騒動の発端が判明したのだから。さしもの霸霧帝もこれには絶句していた。
「――っっこの騒動の発端はアンタかっ!!! やはり今すぐ捕えさせてもらうっ! 神妙にしろ!!」
我にかえった轂焔がそう言霊を投げつける。が、
「別に俺があそこに置いたわけじゃあないさ(やらせたんだけどな)。第一お前、実は『騒動が起こったら瑠璃華さんに逢える』とかって喜んでるんじゃないのか?(俺はそうだが)」
「「えっ―――!!?」」
図星を指された轂焔と、そんな事は思いもしなかった瑠璃華が期せずして異口同音の言の葉を零した。
「あれ、もしかして瑠璃華サン、気付いてなかったんですか?」
「は? え、そ、そうなのか??? ――ってええッ!?」
投げかけられた言霊に振り返った瑠璃華の目に跳び込んできたのは――のほほんとした表情で一匹の猫を抱く浅葱の姿だった。
「ああ、なんか玻璃音サン、こっそりついて来てたらしくて。さっきの霹靂にビックリして、生来の姿に戻ってしまったんだそうですよ。」
「にゃ~~(そーなのー)。」
浅葱の腕の中で至福の表情を浮かべる
「―――あ~っそ。もーどーでもイイよ。そろそろ帰るか。」
「ちょっと待て、黒鳳蝶の! 俺の依頼はどうなるんだ!?」
そのまま帰ろうとした瑠璃華に、雷霆が声をかけた。
「あ~? なんかそんなのもあったよ~な気がしなくもないが……。でもなんかその気になりゃあ自分でいくらでも調べられるみたいだし? 特にアタシが引き受ける必要があったのかどうかも謎なんだけどねェ。」
「だから駄目なんですってば、瑠璃華さん!!」
「だ~か~ら~。貴様には関係ないだろうが!!」
再び、轂焔と雷霆の水掛け論が始まり、瑠璃華は頭を押さえた。
「え~い、五月蝿いッ!! もー知らん! アタシは帰るッッ!!!」
ブチ切れた瑠璃華は、そのままその場を後にしたのだった―――。

碧谷 明